閣下の姉は

慶應義塾大学経済学部卒業。1984年、報道記者としてTBSに入社。 主に文部省、警視庁、東京都庁といった官公庁部門の記者として活動し、1989年に「JNNおはようニュース&スポーツ」のスタジオキャスター就任。

その後、1992年に放送された「JNNニュース1130」にも出演。1993年から記者活動に戻る。1995年には当時の科学技術庁担当記者を務めており、同年に発生した高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事故では、小暮が動力炉・核燃料開発事業団発表の事故ビデオ映像の不自然な点を指摘し、動燃のビデオ映像隠しの発覚に繋がったという。

閣下が唯一、口喧嘩で勝てない人類だ、と言っているそうだ。

市民活動家の問題点

医療、福祉、文化、環境、国際協力、政治参加、人権擁護、教育と、その活動の幅は広い。素人の一市民が団結して活動を行い、NPO・NGOを組織する場合もある。学校、教育現場でも市民活動におけるボランティアへの参加を社会教育的な意味から推奨する傾向は強く、授業の一環に取り入れている。大学、短大でも市民活動への参加を卒業単位として認めているところもある。住民運動とも呼ばれることがあるが、住民運動では地縁によるつながりがより重視される。

他方で、個々の市民活動に対して問題点もあげられている。市民活動としての公共性を主張するためには代表性、公益性についての評価を要する。

代表性の問題とは、市民活動において、市民の名で行われるものが、常にすべての市民を代表するものとは限らず、市民活動が特定の市民の意見(いわゆるノイジー・マイノリティ。主張する少数)によって活動が誘導される可能性を指摘したものである。

ネリーザックス

戦後のザックスはスウェーデンに留まり、ドイツ語での詩作とスウェーデンの詩の翻訳を続けることになる。1947年にドイツで詩集『死神の住処で』を発表する一方で、1952年にはスウェーデン国籍を取得している。故郷ベルリンには1965年に一度訪問しただけである。ザックスは1950年の母親の死の直後をはじめ幾度も精神的な危機を迎え、1960年には重度の危機に陥って精神病院に入院したこともあったそうだ。

最もひどいときには外界に対する接触を全く失うほどだったこの病には、ナチズムによる迫害の経験とそのナチズムが復活するのではないかという怖れが大きく影響していた。そのような不安定な精神状態を抱えながらもザックスは詩作を続けたが、その彼女の文学における支えとなったのはハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーだった。またパウル・ツェランとは16年にわたって手紙のやり取りを続け、二度ほど顔を合わせている様だ。